新作「光の子」完成

どういう風の吹きまわしか、このところ、頑固でユーメイなミュージック・マガジンすなわち本誌に、日本人ミュージシャンの登場するチャンスが、ずいぶん増えてきている。あれだけ拒否されたRCサクセションが登場したり、大沢誉志幸や角松敏生らにもページが与えられたし、YMO関係とインディーズ以外は受けつけないのではないかと思っていた私には嬉しくもあり驚きでもある。
そして今回はとうとうPINKだ。これが誰か他の人が書くのだったら嬉しいだけなのだが、自分でやるとなると、なかなかに辛いものがある。
ある夜、いつものように電話が鳴った。
「ミュージック・マガジンの寺田ですが、PINKについて評論を書いて下さい」
「えーっ、ヒョーロン!?」
「ええ、ウチは評論雑誌ですから」
そうかー、本誌の性格はそういうことだったのかー、長年に亙って原稿を書いていながら気付かなかった。
「どうしてPINKの評論なんですか」
「編集部内でもわりと評判が良くて・・・。あのー、今度のアルバムって前よりロック的なビートが前面に出ていて、面白いんじゃないかと」

まあこんなやりとりの結果、私は引き受けてしまったのだが、本誌がPINKを取り上げたことを、はじめは意外に思った。しかししばらくして、思い当たるフシもあって納得した。PINKは、どういうわけだか、ふだんいわゆる洋楽を聴いている人たちに評判のいいアルバムを作ったバンドなのであった。

以前に紹介されたこともあるのでご存じかと思うが、メンバーとバイオグラフィーを書いておこう。メンバーは次の通りだ。
○福岡ユタカ(ヴォーカル)
○渋谷ヒデヒロ(ギター)
○ホッピー神山(キーボード)
○岡野ハジメ(ベース)
○矢壁カメオ(ドラムス)
○スティーヴ衛藤(パーカッション)

そもそものスタートは、81年に近田春夫のバンド、ビブラトーンズとなった人種熱である。近田春夫とやるときはビブラトーンズ、彼なしの時は人種熱となる6人編成のバンドで、ここに福岡ユタカと矢壁カメオがいた。その後、福岡と矢壁は人種熱を抜け、おピンク兄弟の名でセッション・メンバーによる活動をはじめ、そこに現在のメンバーが出たり入ったりしていたようだ。
その頃、岡野ハジメは、サロン・ミュージックに在籍し、東京ブラボーの準メンバーも務めていた。
ホッピー神山とスティーヴ衛藤は、爆風銃のメンバーだった。当時一度取材に行って、ヤマハの文句ばかり言われて困ったものだ。
渋谷ヒデヒロは、ショコラータにいた。
この6人がパーマネント・メンバーとなってPINKがスタートしたのは83年6月。その旗上げライヴを新宿のツバキハウスでやったのだが、私も行った記憶がある。とてもダンサブルなバンドだという話だったが、ステージの前に人が山になっていて、とてもダンスどころじゃなかったように覚えている。

エピック・ソニーと契約したのは、その後間もなくで、カセット・テープのCMに使われたシングルの「砂の雫」と、映画『チ・ン・ピ・ラ』のテーマ・ソングになった「PRIVATE STORY」の2枚のシングルをリリースした。
アルバム制作の話もあったようだが、この時期には実現しなかった。その理由を後になってレコード会社の人に訊いたことがある。
「彼等のレコーディングはヒジョーにお金がかかる。我々は新人バンドにそれだけ投資する余裕がなかった」
まあ、レコード会社としてはホンネの答だろう。

84年から、福岡と衛藤を除く4人は大沢誉志幸のライヴ・サポート・メンバーとして活動するようになる。また同時期に、衛藤も加えたメンバーで太田裕美のサポートも務めている。スタジオ・ワークなどもやっていたようだ。こうした話を、あまり彼等自身は語りたがらないので、詳しいことは私も知らないのだが、私が彼等と面識を持つようになったのはこの頃だ。

そして85年、ムーン・レコードと契約してファースト・アルバム『PINK』を5月にリリース。続いて7月には「YOUNG GENIUS」の12インチが発売され、ライヴ・ハウス・ツアーも行い、彼らのバンド活動がようやく健全な形で始まったのだった。
85年後半、再びレコーディングに入り、セカンド・アルバム『光の子』がこの2月に発売されることになった。

その(2)へ続く>>