◆『ULTIMATE~ゴールデン・ベスト』リリース時のインタビュー記事/2011年9月◆
技術もセンスも感覚も優れたプロフェッショナル集団。PINKというバンドを一言で表わすと、恐らく多くの人がこうした説明で納得することだろう。さらにそこに付け加えるなら、フィジカリティが高くメンタルも強靭、でも野心はほとんどない無邪気な連中だった・・・といったところだろうか。
福岡ユタカ(vo)、岡野ハジメ(b)、ホッピー神山(kbd)、矢壁アツノブ(ds)、スティーブエトウ(per)、渋谷ヒデヒロ(g)を中心に80年代の東京で産声をあげたPINK。誰でも知っている代表曲、ヒット曲こそないが、パンク~ニュー・ウェイヴの洗礼を受けた当時の日本の音楽シーンを根底から支え続け、新たな時代の底上げに貢献した功績は大きい。リリースされたばかりの最新リマスターを施したベスト・アルバム『ULTIMATE~ゴールデン・ベスト』を聴くと、その硬質でファットな演奏と、ウィットに富んだ”大人な”音作りに改めて驚かされる。そう、彼らは最初から成熟し完成された大人なバンドという印象を我々に与えていた。
ライヴハウスのセッションからバンドへ
当時のことを少しだけふり返らせてもらうと、彼らが結成された当時、筆者はレコード店の片隅に置かれているような手作りのカセットや7インチ・シングルを面白がってせっせと買い漁るような洋邦インディーズ・マニア。そうやって集めた作品の殆どが演奏力や録音技術に乏しいのはわかっていたが、このラフな加減が面白くてイイんだ、と売れ線モノしか聴かないような同級生に一席ぶつような生意気な高校生だったのだ。そんな頃に聴いたのがPINKのファースト・シングル「砂の雫」(84年)だった。曲は思っていたよりポップな印象を受けた。だが、その音のクリアさにたじろいだ。次に演奏テクニックにたじろいだ。”日本にもこういうタイプのニュー・ウェイヴ・バンドがいるんだ”と咄嗟に感じたものだった。今回取材に応じてくれた福岡、岡野、ホッピーの3名は「殆ど覚えてないな」と照れながらも当時をこう振り返る。
「僕と沖山優司くんと鈴木賢司で”おピンク兄弟”って名乗って遊び始めたのが最初。僕はじゃがたらも手伝っていたし、近田(春夫)さんとビブラトーンズをやっていたし、沖山くんもジューシィ・フルーツやっていたし・・・って感じでみんなアミューズの事務所とかでウダウダしてたんだよね。で、TEACのカセットか何かでとにかく宅録みたいなことをやっていたんだけど、それならライヴもやろうよってことになって、コーラスやら何やらどんどんメンバーが増えてって気がついたらこんなになっちゃった(笑)。音楽性とかそんなの全然何も考えないでやってたのにね。”おピンク兄弟”の名前の由来?意味はないよ(笑)。チャラい感じのイメージだったんじゃないかなあ」(福岡)
「当時、アミューズの事務所の予定表とかに”おピンクの集い”って書き込まれていたのを覚えてる(笑)。でも、その意味や由来は誰も気にしなかったね」(ホッピー)
「詳しく覚えてないんだけど、僕はおピンク兄弟のライヴをツバキで見ていたことがある。たぶんその後に一緒にやるようになったんじゃないかな。結局みんな近いところで何かしら仕事していたミュージシャンたちだったんだよね」(岡野)
おピンク兄弟に、ファンキー末吉らによる爆風銃の一員だったホッピー、同じく爆風銃や数々のセッション・ワークで腕を磨いていたスティーヴ、高木完らによる東京ブラボーで活動していた岡野、和製ポリスとも言われた4人組のビジネスで作品も出していた(※1)渋谷らが合流。伝説のライヴ・ハウス/クラブ ”ツバキハウス”に出入りするようになった彼らは、いつのまにかよりシェイプされたファンク・スタイルのバンドへと進化。最終的に、福岡、ホッピー、岡野、スティーヴ、渋谷の5人組(※2)となりバンド名もPINKとなった。これが83年頃のことだという。つまり、既にそれぞれ音楽活動経験が豊かで、次にいつリード・バンドを結成しても不思議ではない者たちが自然な交流関係の中から集まったのがPINKだった。言ってみれば、この時代の若手敏腕プレイヤーたちによるスーパー・バンドだったわけだ。
「もちろん、音楽性を全く意識してなかったわけでもないの。ただ、確認しなくてもみんな大体同じものを好きだった。リップ・リグ&パニックとかグレイス・ジョーンズとかね。あと、マルコム・マクラレンの仕事が好きだったり。みんなアフロとかレゲエとかファンクを当たり前のように聴いていたんだよ。それが自然と出ちゃったって感じだよね」(福岡)
「ホント何にも考えてなかったから、最初は曲も少ないしライヴも30分くらいしかできなかった。でも、その分、初期はもっと猥雑で色んな要素が混在していた面白さがあったと思う。82、83年頃から東京の町も変わってきて、今思えばムラ的に小さかったのかもしれないけど、色んな人が入り乱れていて刺激もあった。そういう空気がPINKにも反映されていったと思いますね」(岡野)
※1)渋谷ヒデヒロが在籍していたのはニュー・ウェイヴ、ジャズ、ファンク、オペラ、カンツォーネを融合させたショコラータ。和製ボリスと呼ばれていた4人組とは・・・??
※2)矢壁アツノブの名前が抜けていて、5人組となっている。