ロックと呼ばれる音楽のスタイルが、いまではオソロシく幅広いものになっていることを、PINKのデビュー・アルバムは感じさせる。8ビート、16ビート、ファンク、エスニック、アコースティック、テクノetc.etc.あらゆる(と言ってもいいほど多種多様の)エッセンスが彼等のサウンドにはつめこまれている。だがこれは明らかにロックだ。アタマもカラダもとことん使っている。
PINKが好きだ、と言ったらナルシストだと言われた。(このいきさつを知りたかったら『ADLIB』6月号P142を読んでほしい。平山雄一さんとの対談が載ってる)
日本の、東京という街でロックすることのむずかしさや面白さが、PINKを聴いていると見えてくる。それが自分にとってキモチいいかキモチわるいか、それがPINKを愛せるかどうかの分岐点になるらしい。
PINKは一見、愛しやすい。けれど安易に愛してはイケナイ。アソビでつきあっても、本気でアソんじゃう覚悟がないと、アソんでもらえない。彼等のアルバムを聴いていると、キモチよくビートに乗りながらもそんな気分になってくる。

 

オレたち、ファンクじゃない

ファンクはキーポイントですか、とベースの岡野ハジメにきいたら笑われた。
「オレたち、ファンクじゃないよ。ファンクって、できないヨ。黒人のさ、あのうねるようなビート、それもしつこいぐらいすごいわけでしょ、ファンクって。あんなの、オレたち、できないもん」
ちょっとベースがハネてるからって、ファンクっていうもんじゃない、と彼は安易に愛されることを否定する。これは彼が”ファンク”というものについてかなり明確な定義を持っているから言えることだ。

詞がスゴイね、とヴォーカルの福岡ユタカに言った時も、鼻先で笑われた。
「詞がどーのこーのって言ったってさ、日本語のノリの悪さってあるわけ。それをどうするかっていうことのほうがタイヘンなの」
曲作りも、サウンド・コンポーザーもやる彼は、ヴォーカルとサウンドのバランス、からみ具合も含めてコトバを選び出すらしい。話しているといつの間にか音楽そのものから離れ、日本文化と西洋文化、なんて話題に移ってしまう。
「いきつくところは仏教文化圏とキリスト教文化圏の違いで・・・」なんてね。

PINKはメチャメチャうまいからナー、と言ったらドラムスの矢壁アツノブが伸びかけた前髪をもてあそびながら言った。
「オレたち、みんなすごくブキッチョなの。一見器用そうに見えるかもしれないけど、言われた通り何でもできるタイプじゃないもん。オレなんかは”カメちゃん、こーゆーの、やって”って言われてもさ”それはできないけど、かわりにこーゆーのはどーですか”って、それで通しちゃう」

 

天才、大物集団です

PINKと話していると、なんてガンコな人たちだろう、と思う。それぞれが、決して譲らない何かを持っていることが、言葉の端や裏側から感じられる。モチロン、それはとてもいいガンコさで、ぶつかった痛みもキモチいい。だがこれだけガンコな人たちが、バンド以外の活動もしながらぶつかりあわずにバンドを維持していられるのは不思議に思える。
「オレたちみたいにしてたら、フツーの人たちならバンドを維持できないと思う。だけど、オレたちは確固としたものを持ってるからね」と自信を持って言うのは岡野くん。
「その持ってるものっていうのは、自分たちのバンドでやりたいことがあるってことと、そこにはオレたち以外の誰にも入り込めないってこと。自分たちの手で作りあげるべきものがあるってことだと思う」

アルバム完成直後のライヴでの印象は、当たり前のことだが「PINKはバンドなんだ!」と膚で感じた。プロジェクト式の、クールなユニットではなく、熱くぶつかりあい溶けあっているバンドだった。アルバムで聴く以上にノリのある演奏で、空中分解寸前まで行くなど、テンションの高さを感じさせた。
日本で、演奏がうまい、と本気でほめられるバンドは実際にはそれほど多くない。ロックはテクニックだけじゃない、と私も思う。それでもPINKは、うまい、と言ったら、「天才大物集団ですから」と全員が口を揃えた。
天才は1%の天分と99%の努力から生まれるというが、PINKは天才だとしたらまさにそのタイプではないかと思う。でも、努力なんてコトバを彼等の前で言ったら、また笑われちゃうんだろうナー。
(取材・文/今井智子)

「シンプジャーナル」1985年8月号掲載