単なるグラム・バンドからよりヘヴィでワイルドなバンドへイメージを変化させていた

「あの頃、中央線の小金井公会堂でよくコンサートをやっていたんだけど、いろんなレコード会社が来たよ。CBSソニー、東芝からはトノバン(加藤和彦)、ワーナー・パイオニアは裕也さん、キングのフォーク・レーベルだったベルウッドまで来たね。金銭的には条件もCBSが良かったんだけど、東芝ならトノバンとできるんで、オレたちは東芝と契約したんだ」

レコード会社と契約する前から、リップスティック(後にガールズも在籍した)という事務所に、ルージュは所属していた。彼らの最初にして最後のアルバム『ベスト・オブ・ルージュ』は、こうして75年10月に発売されている。
そのレコーディングはかなり難航したと伝えられている・・・・・。

「そうだね。どうしてかわからないけど、ずい分と時間がかかったね。オレは2枚持ってたんだけど、叩き割ったんだ。好きじゃなかったからね。トノバンのやりたかったことっていうのは一応できたみたいだけど、オレたちのやりたかったことはできてなかったしね」

当時のルージュを物語る伝説の中に、ルージュは20曲も曲を書いて、その中から5曲だけをピックアップしてリハーサルをやり、さらにそのうちの1曲だけをステージで演奏している。だからルージュが5曲やるには100曲もの曲を書いているんだ、という話がある。
「それはオーバーだよ。ただレコーディングの時、シングル用の曲がないって言われて20曲くらい作ったんだけど、それが全部ボツにされてね。ヤケクソで”パンティー・ロック”みたいなヤツを作ってやろうと思って作ったのが『正義のバンツマ』って曲だったっていうのはあるけどね」

75年4月、日比谷野外音楽堂は、文字通り炎に包まれていた。キャロルの解散コンサートに出演したルージュ。グラム・ファッションに身を包んだルージュのファンは、皮ジャンとリーゼントというファッションのキャロル・ファンの餌食として、野音に来たようなものだった。キャロルの解散でヤケになったリーゼントがグラム・ファッションの女のコをトイレでレイプしたり、カツアゲをしている姿が、野音のあちこちで見られた。そしてステージが炎上し、キャロルを代表とするひとつの時代が終わりを告げようとしていた。

ルージュがファースト・アルバムのレコーディングに入ったのは、このコンサートの直後のことだった。日本のロック・シーンは戦国時代を終えようとしていた。
”若者文化”という名に、ロックが、ストリート・ロッカーたちが飼い慣らされ、ロックが不良のものでなく、ごく一般的に受け入れられるタイクツな時代への転換期でもあったわけだ。

この年の大晦日、晴海の国際見本市会場で行われた「ハルミ・ロックン・ロール・ボランティア」というオールナイト・フェスティバルのステージで、阿部たくやは男根を形どった水鉄砲を股間から出して、観客に向かってジュースをまき散らした。そして、ちょうど同じ日に、渋谷の屋根裏では、頭脳警察が解散コンサートを行なっていた。時代の反逆児たちの象徴的な年末だった。

76年になると、ルージュの周囲には、同じようにグラム・ロックの洗礼を受けたルージュ・フォロワーとでも呼べそうなバンドが、いくつか出現している。横浜や東横沿線を中心に活動していたハウス・ワイフ・フッカーズ(現朝倉紀幸&ギャングの朝倉紀幸や秋本奈緒美などのアレンジャーとして知られる堀江淳が在籍していた)やスウェイ、中央線の吉祥寺あたりを中心に活動していたロードランナー(現プリズムの和田アキラが在籍)やオレンジ・サンシャインといった東京のグラム・バンドが、シーンを支えるべく活発に動いていた。
ルージュも野音などのコンサートでは常連になっていたが、ただ単なるグラム・バンドから、よりヘヴィでワイルドなバンドへとイメージを変化させていた。現に、この頃になると、オサムはメイクもドレスもやめ、かなりストーンズを意識したようなスタイルでステージに上がることが多かった。
渋谷道玄坂の歩行者天国で、遠藤賢司などと共に、トラックの上に作った仮設のステージで、路上コンサートを行ったのは、ちょうどこの年の夏だった。

「最初はオレたちも、オレたちのまわりのロード・ランナーやスウェイ、オレンジ・サンシャインなんてバンドもハッピーだったと思うんだ。だけど、あの頃になるとヘヴィになってきてね。ダリの絵とかさ、ストーンズが『レット・イット・ブリード』の後くらいの海賊盤でやってた『イッツ・オール・オーバー・ナウ』みたいなヘヴィでアシッドな感じが好きになってきたんだ。あの渋谷の街頭コンサートの頃なんて、街にいる背広を着ている人がみんな刑事に見えたよ(笑)」

 

ルージュからスクリュー・バンカーズ

ルージュと”ちょっとしたイイ物”の関係が表面化したのは、この街頭コンサートの直後だった。ちょうど警察がロック・ミュージシャンをスケープ・ゴートに仕立て上げようとやっきになっていた網にルージュが引っかかったことになる。芸能界マリファナ事件の最初のイケニエともいえるだろう。
タコと浜田がマリファナ樹脂の不法所持で捕まり、ルージュはかなりヤバイ所にまで追いつめられた。
「判事がビニール袋に入ったチョコレート(樹脂)を机の上に置いてね。あれ、いったいどうするんだろうって気になったよ。それで、セカンド・アルバムのデモ・テープも4曲レコーディングしたところだったんだけど、事務所もレコード会社もクビになっちゃってね」

その前から、オサムはタコの表現を借りるならば「引き裂かれていた」という。ロードランナーでグラム・ロックをやっていた和田アキラが、ちょうどフュージョンに興味を持って、プリズムを結成した頃、オサムは和田アキラの家に住んでいたという。
「オレたちとはストレートなロックン・ロールやってて、アキラの家に帰ればクロス・オーバーでしょ。オサムはイミテーションに入るまで、”自分は何がやりたいのか?”って悩み続けていたと思うよ」

そして事件後にポリがルージュから脱退。アン・ミュージック・スクールに入学して、もう一度ベースの勉強をやり直すためだった。そしてポリの名前が再び浮かび上がって来たのは、皮肉にもかつて同じ事務所に所属していたガールズのヴォーカリスト、リタと結成したピンナップスのベーシストとしてだった。
「バンドって、いくら前面でグチャグチャやってるヤツがいても、ベーシストがしっかりと後ろでバンドを支えてるっていうのが、ポリがやめた時、つくづくわかったんだ」

こうして、最後の反逆児ルージュは、バンドの大幅なチェンジをしなければならなくなってしまった。
「ジツはルージュって名前は村八分の記事からネーミングで、その記事に”ルージュ”って書いてあったからなんだ。それと左翼って意味もあって、半ばくらいまでは気にってたんだ。けど、その時は嫌いになっていたから、スクリュー・バンカーズって名前を変えたんだよ」
ルージュからスクリュー・バンカーズに変わった時、オリジナル・メンバーはタコとオス、それに浜田だけだった。それに加えて、ポリの穴を埋めるべく、ルージュのボーヤだった少年と、ルージュの後期からずっとつき合ってくれていたオレンジ・サンシャインのキーボーダー、羽田洋一が参加していた。オサムの後釜には、やはりオレンジ・サンシャインの早川やすしが、スクリュー・バンカーズのメンバーとしてバックアップしていた。

しかし、スクリュー・バンカーズから浜田が抜け、そしてタコも脱退して、バンカーズは自然消滅という形で歴史に埋もれてしまったのだ。時代はパンク全盛期だった。

「最後の方はオレが酒びたりだったしね。ルージュのメンバーとはあまり会わないけど、浜田は大阪でオヤジさんの会社をやってるし、オサムはたまに電話で話すよ。オレ?オレは何となく生きてるだけさ」

今、元ルージュのメンバーは、オサムがイミテーションで活躍している以外、ピンナップスから脱退したポリとオスが、ルージュ時代のマネージャーだった坂下氏をヴォーカルに迎え、元ベガーズの佐野くんをドラムに、元スウェイのギタリストだったアキミツをギターに新しいバンドのリハーサル中だという。

「オレ?やるんならばジョージ・サラグッドとかチャック・ベリーみたいなまるくないカドのあるロックン・ロールをやりたいな」

ロックが確かに街角の少年の生き方だった激しい時代を走り抜け、ひとりのロッカーが今、休息を取っている。しかし、ストゥージズからイギー・ポップが、ニューヨーク・ドールズからデヴィッド・ヨハンセンが、モット・ザ・フープルからイアン・ハンターが立ち上がったように、もしかしたらヤツも再びステージに上がるかもしれない。その時、きっと再びルージュの名前が噂されるようになるだろう。

<< その(1)に戻る

(文・大野祥之/MUSIC STEADY 1983年5月号)

>>ルージュとは(外部リンク)

 

「MUSIC STEADY」1983年5月号掲載

※PINKファンの方より貴重な記事データをご提供いただきました。