日本の音楽史に大きな足跡を残したミュージシャン、グループを紹介、再考するこのコーナー。第6回目は、ストーンズ・タイプのストレートなロックン・ロール・サウンドと、グラマラスなステージ・アクトが注目を浴びた伝説のロックン・ロール・バンド、ルージュ。

13年ほど昔になるが、NHKの教育TVが、「ロック特集」をやったことがある。70年代の幕を開いたロックが、日本にも上陸して、NHK的にいえば、”若者の新しい文化”などど大げさに騒がれ、良識ある大人たちが「まったく今の若者は・・・・・」とタメ息をつくための話題になっていたような時だった。

TVの画面ではマイクを持った女性アナウンサーが、街を歩いている髪の長いヤツらをつかまえては、「あなたにとってロックって何ですか?」という冗談みたいな質問をマジメな顔でくり返していた。たしか画面に映っていたのは、今のようにキレイになる前のゴミゴミした道玄坂だったように覚えている。その道玄坂を、黒のロング・コートを着て、女のコともつれ合うようにして登ってきた男が、アナウンサーにマイクを向けられた。
「ロックはボクにとって生き方です」とロング・コートは優等生のような答えを吐いた。

道玄坂を渋谷駅から登って、大人のオモチャ屋を通り越した角を右に曲る。ヌード劇場のカンバンを右手に横目でニラんでまっすぐ歩くと、左側にBというロック喫茶があった。
Bの2階はいつもマックラで、向こう側の壁さえ見えないほどだった。ダダッ広くて、タバコとシンナーの強烈な匂いが、その暗闇の中でうごめいているような気がしたものだ。
週に1度は渋谷警察署の少年係が手入れに現われ、Bの2階に漂っていた”平和”は、その時だけかき乱される。「マッポだ!」の声がするやいなや、やばいものはすべて壁に開いていた破れ目に押し込まれ、その破れ目を背にして誰かが穴をふさぐ役をやらなければならなかった。
また、毎日、かならず1度は、少年、少女の顔写真を手にした人の良さそうなオジサンやオバサンが2階に現われ、けだるそうにタバコをふかしたり、向こう側に飛んでる最中のヤツらに「このコを知りませんか?」などと話しかけて来たものだ。この時代、新宿や渋谷にあったロック喫茶は、どこもかしこも、こういった感じだった。とてもじゃないが、”新しい若者文化”なんて高尚な呼び名で呼ばれるべきではなかったわけだ。

そして、HHKのインタビューに答えたロング・コートも、Bの常連のひとりで、後にチャーが参加し、現在でも活動を続けているバッド・シーンのマネージャーをやっていた浜田たかしだった。
今の時代に「ロックは生き方です」なんてことをマジメに言ったとしたら、”コイツはアホか”と言われるのがオチだ。だけど、あの時代、ロック喫茶には昼間っからタムロしているようなヤツらにとっては、これは真実の言葉以外の何ものでもなかった。金もなく、ロック喫茶に入る金でさえ、カツアゲして手に入れるしかなく、自分の思ったままに生き、道端でさえ眠れる子供たちにとって、まぎれもなく”ガレキの中のゴールデン・リング”を手にした時代だった。

「オレが15歳の時だったから、今から12年前かなぁ、ギターのオス(尾塩まさかず)と新宿のサブ(サブマリンというロック喫茶)で知り合ったんだ。で、オスとベースのポリ(堀井たかゆき)がバンドやってて、それにオレが入ったって感じだね」

村八分と並んで、日本のロック・シーンの鬼っ子として、今や伝説でしか語られなくなってしまったロックン・ロール・バンド、ルージュはそんな時代の東京が産み落とした毒花だった。

 

ハデなメイクとコスチュームに身を飾り、毒々しいまでに過激なステージを展開

83年の今、「何となく生きてるよ」という一人の男がいる。今、ヤツにはバンドもなく、ステージにも立ってはいないが、オレはあえて敬意をこめて、ヤツをロッカーと呼びたい。かつて、あの時代を戦い抜いたルージュのボーカリストだった男、阿部たくやがルージュというバンドを結成したのも、あの時代の東京に生きていたからこそであり、オスと知り合ったのも、東京にポカリと口を開いた異次元のような空間だったからだ・・・・・。
「はっきりとしたデビュー・コンサートっていうのは覚えてないんだよ。たしか明治大学の学園祭だったよ。バッド・シーンと一緒に出て、チャーがバッド・シーンにいた時だね。年代なんかは覚えてないや」と彼は言う。ルージュのヴォーカリスト時代は、たくやから”タコ”というニックネームで呼ばれていた彼のステージ・アクトは、ルージュ結成直後から話題になっていた。

「しばらくしてオスがうまいギタリストがいるっていうんだ。福生でトリオのバンドをやってるヤツだったんだけど、とにかくスゴかったんだ。それで一緒にちょっとやっていたら、ツイン・ギターのからみがカッコ良くってね、それがオサムだったんだ」

こうして、現在イミテーションのギタリストとして活躍している逆井おさむが、ルージュのギタリストとして参加することになる。

その当時は、けっこう変拍子を使った曲などをやっていたルージュに74年3月、決定的な転換が起きた。それはロッド・スチュワート&フェイセスの来日だった。
「ポリとフェイセスを見に行ってさ、ロックン・ロールをやりたくてしょうがなくなっちゃってね。それで、その時にいたドラマーじゃ、ロックン・ロールができなくて、バッド・シーンのマネージャーをやめていた浜田を入れたんだ」

時代はロンドンから巻き起こったグラム・ロックの嵐の洗礼を受けていた。それと共にサディスティック・ミカ・バンドがイギリスで受け入れられ、頭脳警察、キャロル、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、村八分などの活発な動きによって、日本のロックシーンも、かつてなかったほどの盛り上がりをみせていた。

ルージュはハデなメイクとコスチュームに身を飾り、毒々しいまでに過激なステージを展開していた。特に、ギターのオサムは胸まで伸ばしたストレート・ヘアーにドレスといったコスチュームで、一見女そのものに見えるほどの妖しさを放っていた。

「ただ目立ちたいからメイクしてただけだよ。ちょうどグラム・ロックが流行って来た頃だったし・・・・・。ただオサムは最初っからイヤがってたね。で、イミテーションに入ったらカリアゲでしょ。よくよくアイツは(笑)」

ローリング・ストーンズ、ニューヨーク・ドールズ、イギー・ポップ&ストゥージズといったバンドが持っていた大胆不敵な不良っぽさと、得体の知れない恐ろしさが、ルージュをたまらなく魅力的に見せていた

そして、彼らの名前を一躍、有名にしたのが、74年12月31日~75年1月1日にかけて、渋谷の西武劇場でオールナイトで行われた「フラッシュ・コンサート」だった。後の「オールナイト・ロック・フェスティバル」に発展するこのコンサートで、頭脳警察、クリエーション、四人囃子と共に出演したルージュは、ショウ・アップされたステージとストレートでハードなロックン・ロールで東京のロック・ファンのド胆を抜いたのだった。

その(2)に続く>>

>>ルージュとは(外部リンク)