●ケース3・岡野ハジメ


ピンクは以前紹介したこともあるので御存知だと思う。活動開始は83年だが、85年に出した第1作から注目されている強者揃いのバンドだ。彼らは1月末に3作目『サイコ・デリシャス』をリリースするが、それに続く12インチがスティーヴ・ナイのリミックスで、イギリスでも発売されることになり話題になっている。また昨年10月のロンドンでのギグも好評だったと聞いている。

彼らはバンド外活動も盛んで、最近では、ホッピー神山(kbd)がアレンジをいくつか手掛けているし、今回登場してもらった岡野ハジメ(b)は、ちわきまゆみ、ウィラードをプロデュースしている。彼女がメニューをやっていた頃からの知りあいだというちわきはグラム・ロック風、「お化粧バンドが好きだから」と自らプロデュースを名乗り出たウィラードはサイケなバンド風と、コンセプトの明確な仕事をしているようだ。

「(プロデュースは)オーヴァーグラウンドではちわきが初めて。それ以前はショコラータのTRA・プロジェクトで出たやつとか、東京ブラボーなんかのテープを作ったときに僕が自宅ものでいろいろやりましたけど。人の、そういうのをいろいろやりたいなと思いだしたのはここ3、4年のことじゃないかな」

そういった作業のベースになっているのはピンク結成以前の蓄積だそうだ。以前スペースサーカスというバンドにいた彼は、シーケンサーの登場に、「なんでこんなに楽器を死ぬほど練習する必要があるのか。それとボタンをポンと押すことに何の差もない」と思い、人間関係も煩わしくなってバンドを脱退。自宅に録音機材を買い込み、いろいろな音を作ることを始めた。いわゆるニュー・ウェイヴの黎明期で、同じような考えの人たちと交流を深めながら、バンドをいくつも掛け持ちでやるといった状態だった。

「そのたあたりからですね、僕の持っているいろんな何かが人のレコードなんかの力になれば面白いんじゃないかなと思って。いま僕がレコーディング・スタジオでやってるノウハウのほとんどはその期間に得られたもの。自宅でヘッドホン被りながら実験してたものが反映してる」

プロデュースのようなことを始めた当初はそうした実験の成果を楽しむ方向が強かったのか、「お金がかかってなきゃ好きなことやってもいいじゃない」と考えていたのだが、「産業はそれじゃ成り立っていかない」ことに気づいて、「その辺をうまくやりたいなって、いまは模索中。」

一方、一度はやめたバンド活動に戻ったのは、「いろんなプロジェクトに参加して楽しんでた時期が3、4年あった。そこでもうひとつ見たものはニュー・ウェイヴの虚弱さ、底の浅さ。それが面白ったんだけど、ノー・フューチャーだった。で、昔やってたこととその時見たものがあわさって、実力のないものは所詮ただのヘタクソだと。僕は実力のある人とまたやりたかったの。ちゃんと腰を据えてね」

そこで福岡ユタカらとピンクを結成、現在に至る。ピンク内では「バンドの一員としてあーだこーだ言うのはかえってスピードを遅くする結果になることもある」ため、プロデューサー的なことはやっていないそうだ。
「僕は本当にやりたいことがすんなりやれる土壌を作りたいのね。それは僕だけに限らず、僕等の周りの人たちが凄くいい感性や実力を持っているにもかかわらずくすぶり続けているこの何年かのことを考えると、何でできないのかな、みたいなね。いろんな面倒臭いことを考えなくても行ける機構なり前例を作りたいよね」

★★★

というわけで、まとめに入る。

サイズは5人編成でライヴを行った。松浦は並行してサイズ以外のバンドを考えている。岡野ハジメはソロ・アルバムを計画している。今通ともたかはフェンダー・ネックでレスポール・ボディのギターを愛用中だ。

こうした多機能アーティストは以前から存在しなかったわけではないが、その機能のしかたが変わってきていることを、この3人に話をきいて感じた。三者三様ながら、彼らは頑固にバンドを機能させることを考えつつ自らの機能も拡大させていく。いみじくも岡野ハジメが言ったニュー・ウェイヴの虚弱さを乗り越えた力が彼等に限らずいま活躍しているバンド達と個々のプレイヤーにあるのは、そこではないかと思う。

スタジオの無人化、アイディア先行のユニット化を経て、再びバンドの時代などと言われるのは、こういった新型バンドマンが続々登場していることもあるだろう。

アイドルとも対等に勝負し、アイディアだけでも演奏力だけでも振り向いてくれない聴き手に聴かせるために彼等は多機能をフルに活かしてテンポの速い活動を展開している。

今回の3人は目下のところ自分のバンドが主だが、おそらく今後幅広い活躍をするようになると思う。ジェネシスとフィル・コリンズのような関係が続出したら、日本のポップス市場は変わるのではないか、などと期待してしまう。

(文・今井智子/写真・菊池昇)

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「MUSIC MAGAZINE」1987年2月号掲載