PINKの発端は古く’83年に遡る。爆風スランプの母体になった”爆風銃”(バップガン)や近田春夫率いる”ビブラトーンズ”などに参加していたキーボードのホッピー神山と、窪田晴男なども在籍していたアマチュア・バンド”人種熱”から、やはりビブラトーンズに参加するようになった(当時はパーカッションを担当していた)福岡ユタカを中心に、現在はイギリスでギターを修業中の鈴木賢司などのメンバーを加え、不定期に続けられていた”おピンク兄弟”なるセッション・バンドを母体にしてのことだ。

当時では先鋭的なミュージシャンが数多く出入りするということで、一部のファンからはかなりの注目を浴びていたこのユニットが”PINK”と名を変え、パーマネント・グループとして機能していくことになったのは’83年6月、新宿”ツバキハウス”で行われたライヴをきっかけにしてのこと。この時のメンバーは福岡、神山に加え、20才の頃”スペース・サーカス”なるフュージョン・グループでレコードを出したこともあった辣腕ベーシストの岡野ハジメ、やはりビブラトーンズに参加していたサウスポーのドラマー、矢壁アツノブ、ロサンゼルス出身、ハーフ(※注:Wikipediaでは両親とも日本人とあり)のパーカッショニスト、スティーヴ衛藤に、レギュラー・ゲストという形でギターの渋谷ヒデヒロ、サックスの横山ヒデノリというラインナップだった。ツバキをはじめ”ライヴ・イン”、”パルコ・パート3”などを中心にライヴ活動をこなす傍ら、CMやTVの音楽番組のテーマ・ソングなどを手掛けはじめ、少しずつ業界関係者たちの注目も集めるようになった時期のことだ。

当時の彼らの音楽性を表わす言葉の一つに、”ニッポニーズ・ファンク”というのがあった。もともとファンク・ミュージックを下地にしてきた彼らだが、しっかりと構築されたそのサウンドの、とにかく簡単には言い表わせないような日本人的ゴチャマゼ感覚からつけられたものなのだが、仲々よく彼らの性格を表わした言葉だ。

そして’84年、エピック・ソニーからレコード・デビュー。「砂の雫」、映画『チ・ン・ピ・ラ』の主題歌にも使われた「プライベート・ストーリー」と、2枚のシングルを発表。順調なスタートを切ったかに思われたが、この段階ではまだ、彼らのサウンド・コンセプトは早すぎて、ファンのみならずレコード制作者にも理解され得なかったようだ。

PINKが本格的な活動を開始するのはさらに翌年、レコード・メーカーをムーンに移してからのことだ。正に待望であったファースト・アルバム『PINK』を’85年5月にリリース、7月には同アルバム収録の「YOUNG GENIUS」のリミックスを12インチで発表。サイドABが”ゴールド・サイド” ”シルバー・サイド”と記されたこの『PINK』は、ロック史上屈指の名作として評価を得ることになる。

「一言でいうと、”カッコいい”ってなるのかな(笑)? ヘビメタとかプログレとかダンス・ミュージックもね、いろんな音楽のカッコイイ所を集めたっていう、そういう広さは出せたと思いますね」
当時のインタビューで福岡はこんなことを語っていたのを思い出す。

この辺で’85年という年について少しだけ触れておこう。この年をものすごく大雑把に言ってしまうと、”新旧交代の年”ということになる。尾崎豊、吉川晃司、中村あゆみといった(当時の)ティーンエイジャーのロッカーたちが大きな支持を得はじめ、その対極の動きとしてインディー・レーベルが少しずつ、脚光を浴びるようになった時期だ。どちらもそれまでのシスをテム覆す、という所までには至らなかったが、新しいコンセプトを持ったアーティストが実に数多く登場した。当然マスコミや流行に敏感なファンたちの目はそちらの方に向く。この時期の音楽雑誌はどこもかしこも”新時代アーティスト”の大特集。その中でPINKは、といえば・・・・・こうしたハデな動きの中では隅に追いやられていたかに見られていながらも、着実に自分たちの足元を固めていた時期、とでも言えるだろうか。
ちなみに同年の暮れには東京、飯倉のラ・フォーレ・ミュージアムで2日にわたって行われたコンサートでは、延べ1000人以上のファンを動員するまでになっていた。

’86年にはセカンド・アルバム『光の子』を発表。『PINK』に比べるとかなりポップになった音作りが、さらに広い層のファンを獲得する結果になる。

同時に初めてのホール・コンサート・ツアー『RADICAL CHIC CIRCUIT』開始。同年後半には早いペースで3作目のアルバムの制作に入る。10月にはロンドン”BUSBY’S”でのギグや、イギリス国内でのレコード発表も体験。完全に上昇気流に乗ることになるわけだ。

ちなみにこの時期、デビュー当初からほぼ正式メンバーになっているギターの渋谷が病気療養のために脱退。サポートとして、ハード・ロック・グループ ”マリノ”出身のギタリスト、大谷レイヴンが参加。しかし、もともとかなり流動的なスタイル持つことが一つの特徴であった彼らのサウンドには、それほどの影響は出なかった。

同年末にはシングル「KEEP YOUR VIEW」をリリース。マクセルのビデオカセットのCMソングとしてオン・エアされ、さらに大きな話題を呼ぶ。同時期に渋谷公会堂で吉田美奈子をゲストに迎えて行われたコンサートは感動的だった。そして、翌’87年初頭には「PSYCHO DELICIOUS」をリリース。オリコンのLPチャートでベスト10入りを記録。

「メチャクチャやればいいってもんじゃなくて、表面はポップを装いつつもアバンギャルドっていうのが僕の理想なんだよね。まず肉体が反応してカッコいいと思ったり、キレイと思わせる。それが最終目的だね」
岡野ハジメはよく”音楽の快感原則”なんて言葉を使うが、このアルバムは彼のこんな考えが見事に形になって表れていたものだと言えるだろう。

同年2月から始まったツアー『PSYCHO-DELICIOUS ACT-Ⅱ』からは、ルージュ、イミテーション、そしてセンセーショナル・フィクションズなどに参加していたギタリストの逆井オサムが加入する。

10月には早いペースで4枚目のアルバム『CYBER』を発表。全14曲入りで、CDは1枚、アナログは1枚半という形態がさらに大きな話題をよぶ。こうした試みからもわかるように、この頃からライヴよりもレコーディングで本領を発揮するという性格がどんどん強く表れるようになる。そして、それに並行し、メンバー個人のセッション活動が、以前にも増して頻繁に行われるようになる。パーカッションのスティーヴはこの時期正式メンバーを降り、サポート・メンバーになっていたが、それ以外に福岡は窪田晴男グループやじゃがたらのOTO率いる”プードラゴジランボ”に参加、ホッピーは下山淳や布袋寅泰とのセッション活動を、岡野は若手ロック系のアーティストのプロデュースを手掛ける傍ら、サロン・ミュージックの吉田仁とのプロジェクト”クアドラフォニクス”を再開、矢壁も東京少年、松岡英明などのバッキングに参加・・・・・、バンドとしての結びつきがとてもゆるやかになったように見えた。

そして・・・・・この11月5日の渋谷公会堂、7・8日の大阪MODA HALLでの『PSYCHO-DELICIOUS ACT THE FINAL』を最後にライヴ活動は一切を休止。レコーディングの方も11月28日の、既発表曲のリミックスで構成された『FINAL MIX』、来年2月になるであろう5枚目のアルバムの『RED&BLUE』BLUE(仮タイトル)の発表以降、1年間は再開される予定がないという・・・・・。

・・・・・とまあ、そういうわけで、かなり駆け足でこれまでのPINKの軌跡をたどってきたわけだが、一つここで気づくのは、PINKのメンバーのバンドとしての結びつきは、その柔軟極まりない姿勢とは裏腹に、かなり強固なものがある、ということだ。もともとが5人の強い個性から始まった彼らが、この5年間で9枚のシングルと5枚のアルバムという、ロック・バンドとして充実した量の作品を残せたのも、そうした一面があってこそのことだ。彼らにとっては音楽性の変化や活動の方針の変化は永いバンド活動においての、ある意味で、ものすごく小さなマイナー・チェンジにすぎないのかも知れない。だからこそ、今回のような思い切った行動をとれるし、逆にバンドに対して忠実でいられるのだろう。

PINKは間違いなく日本で数少ないロック・バンドらしいバンドだったのだ。

(文・小島 智/写真・佐志素子)

 

◆ACT THE FINAL 特集記事◆
(1) ライブ・レポート(1988.11.5 渋谷公会堂)
(2) PINKの音楽的変遷 PINK 5YEARS
(3) 乱反射をくり返しながらPINKは今もころがり続けている
(4) つくづく自分は音楽人間だなって思う(福岡ユタカ インタビュー)
(5) PINKは革新的なスタイルを作った(岡野ハジメ インタビュー)