編集部は昨年の暮れに”PINK解散説”なるものを聞いた。今回のインタビューの目的はもちろん、ホッピー神山の音楽的な側面、そして今考えることを聞くのもそうだが、日本の偉大なロックバンド、”PINK”の今後を聞きたいということで始まった。
■インタビュー/菅岳彦、撮影/町田仁志
”東京のロック”という言い方、もしくはもっと風呂敷をひろげて ”加工貿易的日本のロック史” とかいうとらえ方で、日本の音楽シーンを眺めてみると、PINKというバンドは、そういう川の流れの河口に位置するようなバンドだと思う。もはや、この先には大海が広がるのみというような感覚にフッとさせられたりするバンドなのである。平たく言うとコンテンポラリーだな。PINKには、もうひとつ、音楽がカッコいいという”特典”があるわけだけど、今回の取材は、その辺を探るというものではない。バンドの取材ではなくホッピー神山の単独取材である。慣例によって、取材の印象のようなものを書くと、ホッピー神山は回転の早い人ということになる。質問の意図をサッと察して(あるいは無視して?)、意を尽くした答えが返ってくる。質問者は、もはや聞き入るのみという感じ。これが気持ちのいいものなのだ。僕は、彼がスタジオで音楽を作っている現場に居合わせたことはないけれど、そんなスタジオの様子を想像したりしながら、オレンジ・ジュースをすすっていたのである。ここで、最初に戻って、”大海”の話。これは、言い方を換えると、最初にコーテーション・マークを付けた区分けなど意味をなくしている時代なんだ、ということになる。ミュージシャンは新しいものを探る時代だ。それじゃ聴き手はというと、”おさらい”である。てなわけで(こじつけが苦しいとはいうものの)”ホッピー神山が語る音楽的生い立ち”インタビューと相成った。
クラシックへの目覚め
---そもそも音楽に接するようになったきっかけというのは?
「えー、そもそもは(笑)、小っちゃいころにピアノをやったという」
---いわゆるクラシック・ピアノ?
「そう。だけど、もっと基礎的な指動かすだけみたいなやつですね。親戚の人が音大に行ってて、ピアノ教室をやるかたわらで、親戚のガキどもを集めて(笑)ピアノ教えるということをしてたんで、それで3つくらいのときに行かされたのが最初ですね」
---自分ではピアノのお稽古は好きでした?
「うん。その親戚ピアノ教室っていうのは半年とかで、その人がお嫁に行っちゃったんでなくなっちゃってね。で、親の話によると、僕が『別のとこで習わせて』って言ったんで続けさせたということで。
でも、小学校とか行くようになって、野球やったりとか、原っぱに基地作ったりとか、丘に穴掘ったりとか(笑)、そういうアウトドアの遊びをいろいろ覚えるころになると、さすがに練習するのイヤだったけどね。練習って好きじゃないんですよ。すぐ飽きちゃうんです。で、曲がつまらないというのがあったの、練習曲って。だから、結構年行ってからは、と言っても12、3歳ですけど(笑)、そのころになると曲を自分で選んで教わりましたね。だいだい、僕の嫌いなあたりが練習曲になってるの(笑)」
---嫌いなものってどの辺だったのですか。
「古典派とかロマン派初期とかの変なのばっかなんですよ。クラシックとしては、もう代名詞になるくらいに超メジャーで有名なところなんですけど、それがイヤで、どの曲も一緒のような気がして。で、しかも、あのころのああいう人たちっていうのは、大金持ちの坊ちゃん音楽でしょ。だいだい髪の毛、長髪にしてなんていうのは、金持ちじゃないとできないですからね」
---嫌いなのがあるということは、好きなものもあるわけですよね。好みが発生してるわけだから。
「それは、演るほうでも聴くほうでも、未だに影響がありますね、かなり。僕は、近・現代のものが好きだったんですね」
---フランスのものとか?
「それとか、特に好きだったのはロシアの現代物ですね。あとハンガリーとか。だから、主流からちょっとはずれたものが好きだったんです。まあ、ロシアっていうと有名な人が多いから主流かもわかんないけど、ドイツ・オーストリアっていうクラシック音楽の中心からははずれたもの。てことになると、民族的な要素がすごい盛り込まれるんですよ。すごく面白いんですよ。で、ロシアとか、ハンガリーのものってすごい哀愁があってね。悲しいメロディーっていうかね」
---好きな作曲家というと。
「僕が一番好きなのはラフマニノフなんですけど、あとプロコフィエフにしても、そうい人たちの作品っていうのは、今、映画音楽のサントラとして使っても全然平気なくらいのメロディー・ラインと、モダンな感じがあるんですよね。逆にハリウッド以降の映画音楽っていうのが、その辺のものを完全にパクってるような気がするんですよね。クラシックはその後、実験的な方向に行きましたけど、いわゆるまともなオーケストレーションということでいうと、その辺のものがそのままポップスとかのほうに受け継がれたような感じがありますよね」
---哀愁のメロディーに引かれるものがあったと。
「うん。ただ哀愁があるだけじゃなくて、ちょっとひねりが入ってるのが好きなんですよ。ロシアでもプロコフィエフとかカバレフスキーとかハチャトリアンとかいう人たち」
---ひねりっていうのは?
「あのね、半音の使い方がすごいうまいの。絶対こないであろうというところで半音のぶつかりが入ってくるんですよ。そえがカッコいいっていうか、気持ちがいいとこで、そのまま僕のその後のポップス観につながってしまったっていう感じなんですよね」
---意表をつかれる気持ち良さみたいな?
「何ていうか、ギリギリの違和感があればあるほどスリリングでいいっていう。でも半音をあたりかまわずぶつけても、でたらめな音楽にしかならないから、今度はセンスっていうのが必要になってくるんですけど、それがうまくいくとすごくカッコいいんですよね。あと、ピアノでは表現できないけど、クォーターとか、その半音のまた半分とか、もっと微妙な気持ち良さっていうのもあるんですよね。そうなってくると、人間っていうのは、肉体的にどうしても数字で割り切れない身体だから、分析してみると、そういうもののほうがすごく人間的なんじゃないかって思うんですよね。民族音楽とかになればなるほど、そういうのが多いんですよね。その微妙なぶつかり方がいいんじゃないかと思うんです」
---テクノの後、特にそういうエスニックなものって注目されてますよね。
「だから、テクノの盲点っていうのはそこにあると思うんですね。機械って微妙なところを表現できないから、そういう音出そうと思ったら、計算して入れてやんないといけないでしょ。だから意外性がないんですよ。ほんとはもっと違うのが気持ちいいかもしれないのに、数字で決めつける作業になってるっていうね」
---テクノ以降、音楽が均質化してるっていうのは確かにありますよね。
「うん。音楽のデジタル化っていうのはね、すごくいい面もあるけど、音楽のサイクルとかがどんどん速くなって、人間が逆に機械に振り回されているようなね、悪循環になってるんじゃないかなっていうのはありますね。だから僕の場合、それを逆手に取って全部テクノロジーでやることもあるんですよ。皮肉ってね。だけど、それ以外は、微妙に機械と人間が共存できるかっていうところで勝負してるつもりなんですけどね。機械は嫌いじゃないんで、そこでどれだけ絡めるかっていうところがおもしろいんですよね」