「キーボードマガジン」1987年2月号に掲載された特別企画。1950年代以降の日本のロック史を紹介した上で、6組のアーティストのサウンドを分析している。


(1) 日本のロックの祖はダークダックス
(2) 海外進出も盛んになった’80年代の和製ロック
(3) 佐野元春 with THE HEARTLAND
(4) PINK
(5) KUWATA BAND
(6) REAL FISH(リアル・フィッシュ)
(7) TM NETWORK
(8) REBECCA(レベッカ)

 

ロックは万国共通だとは言っても、元は外国産の音楽。日本に根づいたロックも、日本ならではのものになっているんじゃないのかな。
ロックが日本に入ってきてから30年あまりの歴史を振り返り、現在活躍中のバンドのサウンドを分析して、それを探してみようか。

(1)日本のロックの祖はダークダックス


日本のロックはダーク・ダックスからはじまっている、というと皆さん驚かれるでしょうが、実はそうなのです。なんと1955年11月に、コロムビアから「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の日本語盤を発売しているのです。これがおそらく、日本人による最初のロックのレコードでしょう。(※江利チエミも同年同月コロムビアから同じ曲をリリースしている)

1956年1月、「ハートブレイク・ホテル」でプレスリーが全米の人気者になります。56~57年の全盛時代に、日本で唯一、リアルタイムにプレスリーをカヴァーしてた人が小坂一也でした。彼は、約10枚に及ぶプレスリーのカヴァー盤(日本語)を発表しています。

1958年2月、「日劇ウエスタンカーニバル」がひらかれ、日本にも本格的に<ロカビリー>ブームが訪れます。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などがスターとなります。レコードではプレスリー、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントなどの曲を日本語に訳したものを出していました。とくにとりあげられたのはポール・アンカの曲で、日本語化するには、あまりビートのきいたものより、こういったロッカ・バラードの方が都合がよかったようです。だから、日本で当時<ロカビリー>と呼ばれていたものは、実はポール・アンカのことだったりするわけです。ちなみにバディ・ホリーなどは、当時、日本での知名度は皆無で、日本人によるカヴァー盤は1枚もありません。

この当時、歌手の華やかさに隠れて、意外に見落とされがちなのが、ロカビリー・バンドの存在です。どの歌手も自分の所属バンドを持っていてステージではそれをバックに歌っていたのです。青春歌謡のような、フルバンドをバックに歌っていたのとは根本的に違うのです。そこに、ロカビリーの”ロック性”があるわけです。スイング・ウエスト、ウエスタン・キャラバン、クレイジー・ウエストなどが代表的なロカビリー・バンドで、大概、サックス、エレキ・ギター、ウッド・ベース、ドラム、スチール・ギター、ピアノといった、5~6人ほどの編成でした。これらロカビリー・バンドこそは、のちのエレキ・ブーム、GSブームの基礎となったものなのです。

1960年から1963年までは、ロックは死んだも同然でした。1962年のツイスト・ブームが唯一ロック的なムーヴメントといえます。日本では、コニー・フランシスやニール・セダカなどの口当りのいいスウィート・ポップスに、日本語の詞をつけて歌うカヴァー・ヴァージョンが全盛でした。坂本九、弘田三枝子、中尾ミエ、伊東ゆかり、飯田久彦などがスターとなりました。

1964年、ビートルズをはじめとするリバプール勢が米国のヒット・チャートを襲撃、これ以降、日本語によるカヴァーが難しくなり、急激にカヴァー盤の数は減ることになるのです。なかには東京ビートルズのようにビートルズを日本語でやったり、クール・キャッツのようにハニーカムズ、ゾンビーズ、デイヴ・クラーク5などを日本語でやっていたグループもありましたが成功しませんでした。安易に日本語で歌うことが不可能になった64~66年の3年間は日本のポップスの過渡期であり、いろんな動きがあって非常に興味深いものがあります。サーフィン/ホットロッドに挑戦した藤本好一、尾藤イサオ、内田裕也など。外国語訳ではなく自前のポップスをということで、中島安畝作曲の<和製ポップス>第1号でデビューしたエミー・ジャクソン。そして、一世を風靡したのが65年のエレキ・ブームです。これによって、アマチュアのギター人口が飛躍的に増えたのです。これほどブームらしいブームもありませんでした。寺内タケシとブルージーンズ、加山雄三とランチャーズがスターとなりました。

66年からは、スパイダース、ブルー・コメッツ、サベージなどのエレキ・バンドがボーカルにも取り組み出し、オリジナルで次々ヒットを飛ばします。そして、67年のタイガースの出現によって、「グループ・サウンズ」の大ブームが始まるわけです。67~68年の日本のポップス界はほとんどGS一色でした。レコードやテレビではオリジナル曲をやっていた彼らですが、ステージでは圧倒的に洋楽のカヴァーが多かったのです。テンプターズはストーンズ、タイガースはビージーズやモンキーズ、モップスはアニマルズ、ゴールデンカップスはR&Bやブルース、ワイルドワンズはラスカルズやママス&パパス、オックスはバブルガム・サウンド、ジャガーズやカーナビーツはリバプール系、そしてスパイダースは向こうの最新サウンドを一早くカヴァーして、絶えずGS界をリードしていました。
GSブームは、粗製濫造によって、歌謡曲化させられ、69年には衰退してしまいます。

代わって、クリーム、ジミ・ヘンドリックスなどのニュー・ロックの影響を受けたグループがぼちぼちと出てきました。パワー・ハウス、ヘルプフル・ソウル、ブルース・クリエイション、ブラインド・レモン・ジェファーソンなどです。69年9月には、日比谷野音で10円コンサート、第1回日本ロック・フェスティバルなどがひらかれます。
ロカビリーからGS まで、日本のロックはずっとナベプロに牛耳られてきたわけですが、ここへきてやっと自前のムーヴメントとなったわけです。

69年のエープリル・フールを前身として、70年に誕生したのがはっぴいえんどです。彼らは当時としては異色の、日本語のオリジナルによるロックのバンドでした。当時は英語によるロックが全盛で、その代表格がGSのフラワーズを前身とする、内田裕也率いるフラワー・トラヴェリン・バンドでした。内田裕也とはっぴいえんどの間に日本語---英語論争というのが起きます。あの頃不思議だったのは、英語のできないのに限って英語で歌いたがったということですが、結局、はっぴいえんどの『風街ろまん』というアルバムが高い評価を受けこの論争は終結します。やがて、日本語で歌うことは自明のこととなり、キャロルなどが登場してくるわけです。
(黒沢 進)

【参考記事】
「翻訳は本来の意味を変えてしまう」:70年代のサイケ・ロッカー、はっぴいえんどがどのようにして「日本語ロック論争」に終止符を打ったか(Billboard JAPAN)>>

 


「ロック・アラウンド・ザ・クロック」江利チエミ (1955年)

 


「フリフリ」ザ・スパイダース(1965年)

 


「Back in The USSR」パワー・ハウス(1969年)

 

その(2)>>