「キーボードマガジン」1987年2月号に掲載された特別企画。1950年代以降の日本のロック史を紹介した上で、6組のアーティストのサウンドを分析している。


(1) 日本のロックの祖はダークダックス
(2) 海外進出も盛んになった’80年代の和製ロック
(3) 佐野元春 with THE HEARTLAND
(4) PINK
(5) KUWATA BAND
(6) REAL FISH(リアル・フィッシュ)
(7) TM NETWORK
(8) REBECCA(レベッカ)

 

(2)海外進出も盛んになった’80年代の和製ロック


1960年代後半の世界のロック・シーンが、あのビートルズの歴史的名盤『サージェント・ペッパーズ』(1967年)の発表と、それにともなうサイケデリック・サウンズとヒッピー達の祭典”ウッドストック・フェスティバル”に象徴されるとすれば、1970年代前半の海外のロック・シーンは、単なるポップスとしてのロックが、様々な実験や音楽性を取り込みながら花開いた時代だったといえるだろう。

1960年代末、アングラ・フォークとGS、海外のニュー・ロックのコピーに明け暮れていた日本のミュージシャン達も、それら海外のバンドをお手本としながら、自分達の独自のオリジナルを作り出そうとチャレンジしていった。

1970年代に入り、いわゆる”ニュー・ロック”と当時呼ばれたフラワー・トラヴェリン・バンド(ジョー山中、石間秀機、内田裕也ら在籍)、フード・ブレイン(陳信輝、ルイズルイス加部、角田ヒロ、柳田ヒロ在籍)、カルメン・マキ&OZ、四人囃子(森園勝敏、佐久間正英、岡井大二在籍)、ブルース・クリエイション(竹田和夫在籍)、フライド・エッグ(成毛滋、高中正義在籍)、村八分(山口富士夫在籍)、頭脳警察(パンタ在籍)などのバンドが続々と登場してきた。
彼らに影響を与えた海外のミュージシャンをあげるとすれば、フライド・エッグやフード・ブレインらは、ジミー・ペイジやジェフ・ベックといったニュー・ロック・ギタリスト。ユーライア・ヒープやジューシイ・ルーシー、アトミック・ルースターなどの影響も感じさせていた。四人囃子はピンク・フロイドに代表されるブログレッシヴ・サウンドを、一早く日本語のオリジナルで創出しようとしていたし、カルメン・マキ&OZの歌と演奏にはジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスの影響が顕著だった。そんな中でフランク・ザッパのマザーズの曲名をグループ名につけた頭脳警察は、外見上はほとんどT.レックスで、本物の不良を地でいっていた村八分はまるでローリング・ストーンズそのものだった。

1972年頃になると、フォークがニュー・ミュージックという名でもてはやされ、ジョン・デンバー、やジェイムズ・テイラーなどのソフトなフォーク・ロックが人気を集めていたがロックの世界では、’60年代初期のビートルズを彷彿とさせるロックン・ロール・バンドのキャロル、レオン・ラッセルやハンブル・パイなどの泥臭いロック・サウンドに影響を受けたファニー・カンパニー(桑名正博在籍)、CSN&Yばりのコーラス・ハーモニーが売りのエム、グレートフル・テッドやオールマン・ブラザースに影響された金沢出身のめんたんぴん、ザ・バンド的な南部的サウンドを狙った久保田真琴と夕焼け楽団などがコンサートの常連だった。

また、’73年に入ると山内テツがロッド・スチュアートのフェイセズへ加入したり、加藤和彦率いる、ロキシー・ミュージック流のロンドン・ポップを狙ったサディスティック・ミカ・バンドが英国ツアーに行ったりと、日本のロックの海外進出の第一歩がしるされた。

’73~’78年あたりにかけて、関西から和製ブルース・バンドが続々と登場してきたのも印象的だった。レイ・チャールズやオーティス・レディングに影響された上田正樹とサウス・トゥ・サウス、BB.キングやマディ・ウォーターズなどの本物の黒人ブルースに影響を受けたウエスト・ロード・ブルース・バンド(山岸潤史在籍)などが代表選手だった。

’70年代も後半になると、一時のニュー・ロックのパワーはアメリカン・ロックやシティ・ポップスに押され気味となり、セクションの日本版ともいえる細野晴臣のティン・パン・アレイ(松任谷正隆、林立夫在籍)、ビーチ・ボーイズやアソシエイション、ハ―パース・ビザール流のコーラス・ハーモニーが売りのシュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子在籍)、ドゥービー・ブラザース風のセンチメンタル・シティ・ロマンスらにスポットが当たったが、ストーンズやヤードバーズなどの黒っぽいブルース・ロックに影響を受けた九州のサンハウス(鮎川誠在籍)、ディープ・パープルの子供といった感じの沖縄出身の紫、オールド・ロックン・ロールやブルースをルーツとした、宇崎竜童率いるダウンタウン・ブギウギ・バンドらも注目を集めた。

’78年に入ると、キャロルから独立した矢沢永吉が歌謡シーンまでを手中に収めて大スターとなり、柳ジョージ、ゴダイゴ、サザン・オールスターズら、ロックの歌謡界への歩み寄りが目立ってきたが、その反発として海外のパンク・ロックに刺激された和製パンクス達がストリート・シーンに続々と登場し始め、現在のインディーズ・シーンの先駆けとなった。ニューヨークのコントーションズ風のフリーキーなビートが強烈なフリクション・ストラングラーズに認められたリザードがその代表選手だ。

’80年代に入るとディーヴォ、B-52’s的なプラスティックス、セックス・ピストルズを彷彿とさせるアナーキー、クラッシュの日本版(?)モッズなどの和製パンク&ニュー・ウェイヴ・バンドのメジャー・デビューが目立ってくる。
またブルース・スプリングスティーン的なストリート・ロッカーを目ざす佐野元春や浜田省吾、日本のストーンズとして甦ったRCサクセションらも大活躍を見せた。

だが何といっても音楽~映画~アートとあらゆるジャンルを巻き込み、世界的規模で’80年代の日本の音楽を先導したのがYMOだった。最初はクラフトワークの日本版と呼ばれた彼らも、今では海外でコピー・バンドが出るほどになってしまった。’83年12月の散開後も、彼らの影響下に、戸川純、サンディ&サンセッツ、一風堂ら多くのテクノ・キッズが続いた。

その後の日本ロック・シーンは、海外進出を果たしたラウドネスやVOW WOWらの和製ヘヴィ・メタル、コミックとロックを結合させた爆風スランプや聖飢魔Ⅱ、インディ・シーンからメジャーへと躍り出たパンクスのラフィン・ノーズやウィラードや、メッセージ・ロッカーの尾崎豊らが、”第3次GSブーム”と呼ばれる現在のシーンの中で気炎を吐いている。
(鳥井賀句)

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